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июня 2007

30.06.07

地域のフリーペーパー

Local_free_paper 役に立たない郵便受けに、いつもたくさんのチラシが投げ入れられる。日本のような安売り広告などではなく、タウン情報のようなフリーペーパーが圧倒的多い。内容は、修理・不動産・車・家具などに始まり、占いや出会い系、果ては黒魔術のご案内まで小さな文字でぎっしり書いてある。

最近は「わが地区」の情報だけを載せているフリーペーパーも登場し、口コミにたよらない情報収集が可能となった。

写真にあるのは、ドモジェドヴォ地区のフリーペーパー。

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28.06.07

グルメ探検未遂

気になっていたが行けなかった料理屋はごまんとある。

特に経済が上向きになってきてからは、インテリアの凝った店やめずらしい郷土料理の店も多数出現。でも実際足を運べたのはそのうちの1割程度だろう。

カフェ・レストラン「ゴーゴリ・モーゴリGogol_mogol」はそのうちの一つ。アルバート通りをはずれて、路地づたいにクロポトキンスカヤ地下鉄駅に行く途中みつけたものだ。英字紙モスクワタイムズの別冊余暇案内「Go!」によると、

「Perfect for romantic dates, but it's on the pricey side. Yummy deserts made on the premises.」

とある。やっぱり凝ったインテリアの分、高いだけなのか。それよりも、ゴーゴリにかこつけた店名が気になる。

Гагаринский пер.6

203-5506/9233 10am-11pm

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27.06.07

私のロシア語ムチャ修行 その3

ガリーナ先生の後釜になったのは、髪が薄くて背の低い中年男性のアナトーリー先生だった。この先生は以前日本人ビジネスマンにロシア語を教えた経験があり、モスクワ放送局のタガログ語課に勤務していたこともあって英語が話せた。一方、私のほうはガリーナ先生の直説法に馴らされたおかげで、アナトーリー先生とは英語で話すことができなくなっていた。Text2_1

先生の奥さんはロシア語教師が本職。インドで長年教えていた。モスクワ放送をリストラされた先生が、第二の道として選んだロシア語教師。プロの妻をもつアナトーリー先生の特徴は、生徒のニーズに合った教え方を編み出すことだった。これは先生が他の職業を体験してロシア語教師になったことが大きい。

私の場合、滞在期間が短いわりに要求が多いというので、超スピードで授業が進んだ。週2回、1回3時間半の授業で、1冊のテキストを約4ヶ月で終わらせていた。

私たちの授業はお昼どきがまたがっていた。だから休憩と称して、お互い持ち寄った「弁当」を交換し味見した。私がよく持って行ったのは、海苔巻きや中身のないどら焼。先生はブリヌィ(パンケーキ)が多かった。授業が終わると、一緒にモスクワ大学構内の売店へ行き、私はあんずジュースを1杯、先生はビールを1瓶。銘柄は忘れてしまったが、飲むビールは決まっていた。それが売り切れのときは、バルチカを飲んでいた。先生はペテルブルグの出身だった。。

ときどき大学近くの市場も一緒に行った。先生がどんなチーズやハムを買うか、どうやって店員とのやりとりをするかなど、どんな教科書よりも実用的で勉強になった。

Text2 Workbook

この先生とは非常にウマが合い、その後も交流が続いている。

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26.06.07

身分証明書入れ

IWC(インターナショナル・ウーマンズ・クラブ)で知り合ったデンマーク人女性から「パスポートは携帯しなくていいんじゃない? コピーで十分よ」といわれたときには仰天した。ロシアでは外出するときには必ずパスポート・ビザ・出入国カードの三点セットを携帯しなければならない。たぶん彼女は警察から職務質問を受けたことがないんだろうなと思い、人種(民族)差別の存在を再確認したのであった。

実はロシア本国人も身分証の携帯義務がある。それらは、おおむね国内パスポート、退役軍人証明、身体障害者証明、学生証などだ。モスクワに住民票がないロシア人も、ほとんど外国人旅行者のような扱いを受ける。ましてやモスクワに働きに来ている人は、同じロシア人でありながらモスクワのグリーンカードが必要だ。

これだけ住民登録や居住資格にうるさいモスクワだから、当然のようにヤミで書類を作る商売が成り立つ。

身分証明書一式のことを「ドキュメント」(現地風に発音すれば、ドクメンティ)と呼ぶ。ロシア語に不慣れなとき、何のことかわからず警察の職務質問を思いっきり無視してしまったこともあった。Document_folder1 Document_folder2 あとから考えてこれは極めて危険な行為だった。なぜあのとき警察からしょっぴかれなかったか不思議だが、1997年当時はまだまだ職務質問が鷹揚だったのだろう。

さらに、貴重品だからといって肌身に直接つけていると、いざというとき取り出せず、路上でストリップするはめになる。冬場もコートの内ポケットに入れておくと、クロークで預けるときにうっかり忘れそうになる。身分証の常時携帯とは実に面倒くさい。

ちなみに街のキオスクで上のようなフォルダーを見つけた。だが実際このフォルダーを使っているロシア人を見たことはない。

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22.06.07

クトゥーゾフスキー・プロスペクトの夕暮れ

夏至近し。懐かしのクトゥーゾフスキー・プロスペクトの夕暮れ。

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19.06.07

私のロシア語ムチャ修行 その2

ロシア語センターから紹介された先生は、齢50歳くらいのガリーナ先生だった。簡単な顔合わせのあとレッスンの時間を言い渡されたのだが、初回は私が時間を間違え、先生は先に帰ってしまった。それから私は毎回紙に書いて時間を再確認するようになった。

私たちの授業はいつも「教室探し」から始まる。個人レッスンは固定した教室がない。そのため、空いた場所を先生と探し回るのだ。

いつも本館から離れた経済学部の演習室やら、寮の空いた部屋で行っていた。同じ状況のクラスと縄張り争いになったこともある。なので、私はいつも授業開始より早めに来て、前回使った実績のある空き部屋を陣取って先生の来るのを待った。トイレの場所も問題だった。モスクワ大学とあろうものが、トイレが極端に少なく大半が壊れていた。先生はトイレの近さもいつも考慮に入れて教室探しをしていた。

ガリーナ先生は英語も日本語も話さないので、純粋に「直説法」の授業だ。ただし基本的表現や文法は自習する必要があった。でないと、「読みなさい」「書きなさい」という言葉もわからないのでは話にならないし、子供が言語を習得するようなペースではやっていけない。宿題は本文を書き写すことだけ。ガリーナ先生の筆記体はとても美しく、先生の筆跡をまねてみたがうまくいかなかった。

授業が終わると一緒に地下鉄に乗って帰った。先生はいつも山羊皮の黒いコートと帽子をかぶり、とてもエレガントだった。

めちゃくちゃな学習法だったが、2ヶ月くらい経過すると何を言っているかなんとなくわかるようになってきた。勘だけ異常に発達してしまったのだ。ある日、ガリーナ先生が「今日はミチェーリを見ましょう」と言って、いきなりLL教室を借りに行った。そこで見せられたのはプーシキンの「吹雪(ミチェーリ)」という古い映画だった。「わからないところがあったら質問しろ」と言っておきながら、見終わったあとに感想を求められた。吹雪で浦島太郎状態になった若者の話というのはわかるが、結末がイマイチよくわからない。「最後がわかりません」と正直に言うと、先生はちょっと悲しそうな顔をした。

その後、私の母がモスクワに遊びに来たりして先生と一緒にお茶を飲んだが、言葉が通じないなりに楽しく過ごした。

それから数週間後、ガリーナ先生が突然先生を交代するといってきた。酒ばっかり飲む旦那がいるとか、問題のある息子がいるという話を聞いていたが、結局理由はわからずじまい。ガリーナ先生の消息はロシア語センターからも消えた。

(続く)

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14.06.07

私のロシア語ムチャ修行 その1

いわゆる「シルクロードオタク」だった私にとって、ロシア語と完全に無縁だったわけではない。なんといっても中央アジアの国々はかつてソ連邦だったのだから、ロシア語が第一共通語。中国語を学びつついつかはロシア語も、と思っていたところだった。

突然、本格的にロシア語を学ぶチャンスがやってきた。国内での学習より先にモスクワに渡ってしまった。今日からその回想を綴る。

右も左もわからぬモスクワ。とりあえず知り合いから「信頼できる、良心的受講料」のロシア語教師を紹介してもらうはずだった。だが、モスクワ入りして1ヶ月もたつのにいっこうに話が来ない。しびれを切らした私は自分で先生を探すことにした。

聞くところによると、モスクワの名門大学には外国人向けの語学教室があるという。いい外貨稼ぎだが、家庭教師より通学した方がおもしろそうだ。大学生の生態なども興味がある。

ブランド志向なわけではないが、国際関係大学が気になった。МГИМО(ムギモ)という略称の響きが、なんともいえず食指をそそったのだ。

ところがこの学校は地下鉄駅から遠かった。下見を兼ねて案内書をもらいに行ったが、帰り道ではすでにこの学校にするのはやめにしようと思った。

続いて考えたのはプーシキン大学。ロシア語教育の権威である。こちらも駅から遠い。付属のロシア語センターは、いつ電話しても不在。この学校もボツにした。

そのあと、モスクワ大学付属ロシア語学校(ЦУМО)を考えた。こちらは語学研修後に大学入学を狙った人たちのもので、学期の開始も固定されている。すでに11月なろうとしていたので入学は無理だ。ボツ。

最後に行き着いたのはモスクワ大学(МГУ)内にあるロシア語センター。随時入学可とある。まずはファクスで料金を尋ね、下見を兼ねて現地に出向きディレクターと面談。私の授業の希望と予算を述べて、ロシア語授業の契約を行う。週2回計6時間、授業料は2ヶ月に一度払う。学生証や学生交通定期ができるので取りに来ること。などなど。この間、何をどうしゃべったかまったく覚えていない。ロシア語ができなかったので英語でのやりとり。ディレクターは学校関係者というよりビジネスマンだった。我ながら大胆なもんだ。

そのディレクターが私に紹介してくれたのは、50歳くらいの女性の先生。彼女は日本語はおろか、英語もできなかった。何を言っているのかまったくわからない。そして私のロシア語ムチャ修行が幕を開けた。(続く)Textbook

→ 最初に使ったロシア語教科書。普通の本屋には売っておらず、教科書専門のブローカーから買った。

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11.06.07

アパートからの夏の風景

夏至を前に、緑がいちだんと眩しい季節になった。モスクワは本当に樹木が多いなあと、改めて感じる。

6月になると学校も卒業式や夏休みを控え、そわそわした雰囲気。大人たちもどこか間延びした様子だ。この時期楽しいのは、中庭にある木陰のベンチで、まったりとした時間を過ごすこと。日本人には少し苦しい姿勢になる角度のベンチで、老若男女がおしゃべりの花を咲かせたり、ビール片手に若者が群れていたり。野外でチェスに興じるおじさんたちをよく見かけるのも、今頃の時期だ。

わざわざダーチャまで行かなくても、アパートの中庭には都会の喧騒から少しだけ隔絶された空間がある。もくもくとした緑に囲まれ、遅い日没を待つ幸せな昼下がりである。

View_from_apartment

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08.06.07

鉄道時刻表

今ではインターネットでも情報が入手できる鉄道時刻表。以前は、各鉄道駅に時刻表が売ってあった。私がモスクワにある鉄道駅のすべての時刻表を入手したのは1999年。ロシアの出版物にしては珍しく、「公称出版部数」が記載されていない。Train_map

日本と違って、路線も本数も単純なので「時刻表を読んで楽しむ」「乗り換えを駆使する」ということはできないが、モスクワ-キエフやモスクワ-ペテルブルグといった幹線鉄道の途中に、どんなローカル駅があるのか知ることができておもしろい。

Raspisanie

ロシアを感じるのは、Пл.33кмやПл.170км(いずれも33kmプラットフォーム、170kmプラットフォーム、ぐらいの意味か)といったそっけない駅名だ。余白に載っている広告も、ダーチャ修理用具とかインテリアの広告など、旅行には直接関係ないものばかり。もっとも最近の時刻表は様変わりしていると思うが。

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04.06.07

アルハーンゲリスコエ(Архангельское)

モスクワから西北約15km。地下鉄トゥーシンスカヤ近くのバスセンターからは、なぜかマルシュルートカ(乗り合いミニバス)しか出ていなかった。

ロシアに忠誠を誓い、貴族となったユスプフ家の屋敷とその広大な庭がアルハーンゲリスコエ(Архангельское)である。メインは西洋庭園と敷地内に点在している彫刻やギリシア風の柱。さながら、彫刻の森美術館のようだ。Arkhangelskoye01_1 ちょっとまぬけな表情のライオンがかわいい。

さらに森の中に建てられたいくつかの小屋敷は、それぞれ美術品や調度品を展示する美術館となっている。 Arkhangelskoye02

庭園付き公園でありながら、アルハーンゲリスコエは今や野外ステージのメッカ。夏はここでクラシックやジャズのコンサートが開かれる。残念ながら私は観に行ったことがない。Arkhangelskoye03

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01.06.07

車窓 1

プロフサユーズナヤ通りの町並みを行く。

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