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августа 2010

31.08.10

ソ連時代の人権弾圧とゼノフォビア

ウラル地方の小都市で、スキンヘッドがコンサート会場に乱入、多数の死傷者が出たそうだ。これまで何度もコンサートやライブにのこのこ1人で出かけていたが、こういうニュースを見ると自分が今まで相当幸運だったことが身に染みる。

ところでプーチン以前・以後とモスクワを済み比べてみると、プーチン以後はアジア系に対して確実に住み難くなった。また、サハロフ・ミュージアムのような、ソ連時代の人権弾圧を記憶しその犯罪を糾弾していこうという施設への助成を打ち切ったり、人権団体メモリアルに対する露骨な嫌がらせをしたりするようになったのも、プーチン以後ではないだろうか。ロシア人以外はロシアから出て行けという発想を容認する現ロシア政府は、ソ連が国を挙げてやった人権弾圧を一般市民(スキンヘッドは筋金入りのネオナチばかりではない)にやらせているようなものだ。

ゼノフォビア(外国人嫌い)はもちろん日本にもある。異民族との生存競争が激しくなるにつれて、それは激しくなるだろう。ゼノフォビアは、弾圧される外国人をかばう自国民も弾圧するだろう。そうなると、自国にいても外国にいても、安住できるところはもはや無い。自分もゼノフォビアになるしか自衛できない。

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30.08.10

ロシア雑穀の怪

1998年の経済危機のころ、ソバとクルパ・マンナヤと小麦粉(日本のでいえば中力粉くらいのもの)を買い貯めた。思ったほど使わず時間が経過していったのだが、冬ごろなんとなく部屋の中に小さな「蛾」が飛んでいるのを目にするようになった。

最初は変だなと思っていたが、ある日買いだめしたクルパ・マンナヤのビニール袋から、中身がもれているのに気づき袋を開けた。すると、中に「蛾」の「幼虫」が孵化。
買い込んだクルパ・マンナヤはすべて同じメーカーのものだったので、涙を飲んで全部捨てた。

小麦粉は異常なかったが、ソバの1袋で「幼虫」が孵化していた。

以来、これら穀物の袋も冷蔵庫に入れるのだが、もし「卵」が入っていたらどこで孵化するのだろうか。

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16.08.10

ヴィクトル・ツォイの20回忌

今年の8月15日で、ロシアの伝説的ロックシンガー、ヴィクトル・ロベルトヴィッチ・ツォイの20回忌を迎えた。例年、アルバート通りの露地にあるヴィクトル・ツォイ追悼落書き壁には、多くの若者が集うが、今年は節目の年とあって、例年以上の集合だったようだ。

私が初めて聞いたグループ「キノー」の曲は「カムチャットカ」だったが、なんだか不思議な曲想で印象深かった。コリアンとのハーフである彼にとって、極東に位置するカムチャッカ半島は何か引き合うものがあったのだろう。て 
「キノー」の曲は、ソ連時代のサムイズダート文化とペレストロイカの間を縫って生まれたものだが、彼が今のロシアに生きていたら何をテーマにしていただろうか。同時代のグループである「マシーナ・ヴレーメニ」、「アクヴァリウム」、「アリサ」などの変容を見るにつけ考える。

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※ コメントで、死去年数の誤りについてご指摘がありましたので、訂正しました。

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09.08.10

原爆に対する感情

8月6日と9日が原爆投下日だということを知るロシア人は多い。広島、長崎の都市名もロシア人の間ではわりと知られている。「親戚で原爆に遭ったことがある人はいるか」など尋ねられたこともあり、原爆の影響について関心を持つ人はかなり多いと感じる。

これはおそらくチェルノブイリ原発事故のせいだろう。放射能汚染や人体に与える影響を、原発事故で知ることになったロシア人は、「投下された核兵器」による被害に対する関心も高いのだ。

そのためか、「はだしのゲン」ロシア語版、井上ひさしが書いた「父と暮らせば」が上演されるなど、日本の原爆被害もそこそこ受け入れられている。こうしたロシア人の態度は、自国が世界でトップの核保有国であるにもかかわらず、自国が「実戦で使用したことがない」ことから来るのだろう。

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02.08.10

1988年のモスクワ

1988年8月のモスクワは、カーディガンを羽織るのがちょうどいいくらいの天気だった。初めての海外旅行で、ツアーに乗っかってやってきたモスクワだったが、最初の訪問地ハバロフスクでの買い食いが原因によるお腹の調子急下降がようやく上向いてきたところだった。

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とにかく広い道路(当時は車も少なかった)と、でかい建物に圧倒されながら夕方から自由行動。宿泊地は地下鉄スモレンスカヤ近くのホテル・ベルグラード。ここからサドーヴァヤを渡ってノーヴィ・アルバートへ散歩しに行った。ペレストロイカ真っ最中の歩行者天国は、まさに活気に溢れた自由広場といった感じで、緊張を強いる赤の広場とか空港の待合室とかとは大違い。窓から漏れる「ミラーボール」の光に誘われて入ってみた「ディスコ」は、いわゆる西側の音楽で踊り狂う若者でいっぱいだった。同じ光景は、同年たまたま行くことになった中国・桂林でも見ることとなる。

地下鉄に乗って、マヤコフスキー駅で降りた。ロシア文字もろくに読めない当時は、これだけでもおっかなびっくりの大冒険である。体調最悪のレニングラードから幾分もちなおしたおかげで、モスクワはわりとよく観察できた。でも、10年後にモスクワに住むことになるとは予想だにしていなかった。しかもソ連ではなく、ロシアのモスクワ。運命のうれしい皮肉である。

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