10/23/2009
ドゥブロフカの劇場占拠事件が起きて、ちょうど7年となった。
今なお使用されたガスの成分について、政府から公式発表はなされていない。とりあえず被害者にはいくばくかの見舞金が出たことで、一件落着とされているが、今年3月、死傷した人質たちの所持金が捜査当局によって盗まれていた訴える裁判が行われた。
いくらなんでも被害者から金を当局が盗むとは言語道断。しかし、ロシアでは交通事故に遭った人から臓器が盗まれることもよくある話と聞かされていたので、よくよく考えるとあってもおかしくないのであった。
恐るべきは、シャヒドベルトをしたテロリストより警察、特殊部隊。彼らが公権力を行使して行ったことは何一つとがめられない。7年前からそう思うようになっている。
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10/07/2009
相変わらずジャーナリストへの弾圧や殺害が絶えないロシア。2006年10月7日にアンナ・ポリトコフスカヤが暗殺されて、今日で丸3年となる。
しかし、モスクワにいたとき、私がより親近感をもっていたのは、実はアンナ・ポリトコフスカヤではなく、ユリア・ラティニナの方であった。
というのは、単に彼女が出ているメディアに多く接していたからだと思う。ユリア・ラティニナはFMラジオ「モスクワのこだま(Эхо Москвы)」の政治トーク番組パーソナリティで、よく彼女の声は耳にしていたし、英字新聞「モスクワ・タイムズ」で彼女は「INSIDE RUSSIA]という政治コラムを担当していた。「モスクワのこだま」で話していた部分のわからないところは、たいてい「モスクワ・タイムズ」のコラムで補完したりして、ラティニナの主張というのはおおむね理解できた。
一方、ポリトコフスカヤは「ノーヴァヤ・ガゼータ」が主な執筆舞台。おまけに「ノーヴァヤ・ガゼータ」はどのキオスクでも入手できるとは限らない。主にネットで見るだけだったが、ロシア語だけの接点というハンディが、私とポリトコフスカヤの接点がどうしても少なくさせていた。
アンナ・ポリトコフスカヤの日記・取材メモから成る「ロシアン・ダイアリー」の訳本を去年読んだ。彼女の日記は私がモスクワにいた時期とほぼ一致しており、彼女への距離が縮まったような感じがした。
果敢に当局の不当な弾圧と戦ってきたポリトコフスカヤだったが、結局殺されてしまった。ユリア・ラティニナもそうとう厳しい当局批判をやっているし、かなり危険なのではないかと危惧しているが、今のところまだめげずにがんばっているらしい。
私がモスクワにいた当時の「モスクワ・タイムズ」には、ラティニナのほかに、アレクセイ・パンキンやヴラジーミル・カヴァリェフなど、辛口コラムニストがいた。アネクドートも翼賛的になるのではないかと思えてならないが、とにかくロシアの「当局批判ジャーナリスト」は生き延びてほしい。
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09/01/2009
また新学期の9月がめぐってきた。
北オセチア共和国ベスラン市の学校で、起こった悲劇から5年がたった。
あのテロ事件以降、しばらくチェチェンがらみのテロは起こっていなかったが、最近人権擁護組織の活動家の暗殺をはじめとして、自爆テロなど再び不穏な雰囲気が立ち込めている。
ところで、日本にいる知り合いからよくたずねら れるのは、なぜ始業式と入学式を兼ねた日にあれほど多くの父兄(しかも乳飲み子まで一緒に)いたのか、という質問だった。私もモスクワに来るまでは、9月1日が子どものいる家庭にとって、とても重要な日だということの認識が浅かった。わが子が晴れて入学する日、担任の先生に花束を渡す日、下級生をつれて学校を案内する日、そして男の子は背伸びをしたような背広を着て、女の子はエプロンドレスに大きなリボンをつけた姿が、父兄にとっては単なる親バカ以上に喜ばしい1日となる。
子どもの教育に熱心な親も多く、一方で教師が父兄に求めるものも多い。概してモンスター・ペアレントという言葉には無縁な国である。もちろん、子どもをヤミ商売に売ってしまうような親もいなくはないが、概して教育やしつけには厳しいといえる。
ベスラン第一中学校も、おそらく教育に熱心な普通の父兄らが詰め掛けたのだろう。乳飲み子まで一緒だったのは、学校が共同社会に根を下ろしている証拠である。また、基本的に治安がそれほどよくない地域に住む親子は、危険に対処する方法も経験から熟知している。武装グループに対する無意味な抵抗や刺激を起こすようなパニックがなかったのは、こうした経験則からきているのではないか。
日本の子どもがこういう事件に遭遇した場合、PTSDにかかる前に統合失調症になるのではないかとも思う。
去年の夏までのバブル景気を経て、不況脱出にもがくロシアで、どれだけベスランのことを思い出している人がいるかわからないが、5年という歳月は確実に記憶を薄めている。

http://www.eng.kavkaz-uzel.ru/articles/11057
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06/05/2009
いいがかりや嫌がらせでよく職務質問を受けることはあっても、たいていは地下鉄駅周辺。本当に警察署まで連れて行かれたのは、なんと車に乗っていたときだった。
原因は、同乗者で運転していた日本人T氏の国際免許が失効していたため。
T氏は以前ロシアの免許証に切り替えていたが、同じく不当な取調べの最中に警察官とケンカして、免許証を取り返せずに国際免許証だけで運転していた。日本に帰国するタイミングを逃し、期限が切れていたにも関わらずそのまま運転していたのだった。
面倒なことになったなあ、と思っていたがこういうとき私の役目は「ロシア語がまったくわからん日本人」になりきること。なんでどうしてとわめいてみたが、交通警察はパスポートとビザを取り上げたまま返さない。しかたなく警察署まで行くことになってしまった。
運転していた日本人T氏は別室で取り調べ。私は途中で制止され、入り口に留め置かれた。その間、ロシア語わかりませーんを繰り返す。取調べ後、それとなくワイロを要求されたので従うことになった。指3本、つまり300ドルだった。
幸いなことに当日両替する予定のドル札をもっていたので、要求する警察官に差し出すと、あっさり放免された。大金を持ち歩くのは危険だが、ある程度の金額はいつも持っていたほうがよい、という教訓を得た日だった。
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05/31/2009
気に入った雑誌がみつかると、編集部を訪ねて見たくなるという妙な性癖を持っている。モスクワのキオスクで「見かけたら購入」していたのは、ロック音楽雑誌「FUZZ」、それから90年代はわりと音楽に比重が置かれていた「OM」であった。ロシアでは、新聞・雑誌の類は主にキオスクで買うという慣わしになっていたので、場所によっても値段がばらばら。しかも同じキオスクで次号が必ず入るとは限らず、いつも出たとこ勝負であった。
そういうわけで、どうしてもバックナンバーがほしい私は、「OM」の編集部に直接談判に行くという暴挙に出たのであった。
奥付によると、「OM」の編集部は地下鉄スパルチーブナヤとパルク・クリトゥーリの間あたりにある。住所と地図を片手にあたりをうろつくが、石造りの少々古めかしいアパートが連なっているだけで、該当する番地にもプレートらしきものがない。しかたがないので、「該当番地」の建物に入り、たまたま警備がいたので「OMの編集部はどこですか?」と尋ねた。すると、あっさりと「こっちの部屋」といって案内してくれた。当時はまだプロプスク(入構証)や許可証がいるなどとうるさいことを言わなかったため、ノーアポ、ノードキュメントでまんまと編集部に入りおおせた。
当然、編集部の受付嬢はいきなりやってきた東洋人にびっくりした様子で、「いったい何の用ですか?」 とりあえずバックナンバーがほしいというと、別室に通され編集部に残っているものをもってきてくれた。ロシアでは編集部で直接買えば少し安くなるということを知っていたので、割引をお願いして、そこにあるすべてのバックナンバーを購入。おもむろに風呂敷を広げ、「OM」を包んで持ち帰った。
さすがに編集部の内部を観察ということはできなかったが、音楽・サブカルチャー雑誌の編集部にしては学校みたいなマトモさで正直驚いた。紙類はあまり散らかっておらず、パソコンも1~2台あるだけ。みな黙々と机に向かっており、雑誌の中味とは落差がある。
2004年ごろから、ロシアのバブル景気に乗った派手なクラブライフみたいな内容に変わってしまい、私も「OM」ではなくて「FUZZ」だけ買うようになってしまったが、ちなみに「FUZZ」は発行組織がサンクト・ぺテルブルグにあるので、編集部訪問は実行できなかった。
http://www.om.ru/
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05/16/2009
雑多な人間が住む大都会モスクワ。特に、外国人(非白人)には不当な暴力や嫌がらせというものもあり、当然生活リスクは高い。
一番不気味だった嫌がらせはイタズラ電話だった。
あるとき出先の携帯電話にかかってきた1本の電話。声の主は男。ロシア語で「おまえ、ベトナム人だろう」としつこく言う。私は返事もせずに切った。しかし、すぐさままた電話がかかってきて、「おまえ、ベトナムから来たんだろう」と繰り返す。今度は無言で相手のいうことをじっくり聞く。
すると、「ベトナム女とつきあいたい」とか言い出した。
今度は無言で切った。
しばらく携帯電話の電源を切り帰宅。つけたと同時にまたかかってきた。
今度は最初から「おい、ベトナム女」と言い出した。面倒くさいので、切らずに携帯をそのまま袋に入れて掃除機の音を中継してやった。それ以来かかってこなかったが、しばらく携帯電話の受信には過敏に反応するようになってしまった。
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04/29/2009
5月になるとモスクワは一気に初夏の様相となる。
野外活動も本格的になるが、2002年の初夏は思いがけない出来事が起こった。
あるとき右の二の腕が2倍くらいに膨れ上がり、熱っぽくてだるい。虫に食われたようだが、森にも公園にも行っていない。かゆみ止めを塗って様子を見たが、腫れが引く感じもなく、なんとなく指先がしびれる。前任者が置いていった「家庭の医学」を見てみると、ある種のダニは伝染病を媒介するある。もしそうだとしたら厄介だ。
とにかく病院へ行かねばと思ってみたところで、休日。例の外務省関係病院は休みだ。しかたなく駆け込んだのはEMC(ヨーロピアン・メディカルセンター)。ここには日本語ができるロシア人通訳がおり、彼女が日本語を英語に通訳して医者と患者の意思疎通を図ってくれる。このときの医者はアメリカ人だったが、私が3枚も服を着ていたのを見て、「なんて着込んでいるの!」と驚いていた。アメリカ人は概して薄着なのだろう。
それはいいとして、なんの虫にかまれたのか不明なので、結局総合血清のようなものを注射し、湿布を貼って残りは飲み薬、ということになった。腫れはしばらくして引いたが、指先のしびれのようなものはしばらく引かなかった。このときの支払いは「海外旅行保険」で賄ったので、負担は実質ゼロ。保険をかけていた効果が発揮された。
http://www.emcmos.ru/
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04/26/2009
2002年5月、2度目のモスクワ入りをしてすぐ、2度目の突発性難聴が発症。右耳がふさがったような感じで、音楽を聴いても低音がまったく聞こえずチャラチャラと聞こえてしまう。もちろん男の人の声は左耳でないと意味がとれない。
あわてて地下鉄オクチャーブリスカヤに近いロシア外務省関係者用の病院へ行く。
まずは「入構証」を作らされた。顔写真を一枚持って行き、アドミニストラートル(アドミニストレーター)がパウチされたカードを作成。ついでにブランクのカルテも作る。これを持って「担当医」のところへ行かされた。
「担当医」が何の専門なのかまったくわからなかったが、一応聴力検査もしてくれた。原因はわからないが、こういう突発性の難聴は血行不良による耳内気圧の異常がひきおこしている、というので、週2-3回通って「マッサージ」をすることになった。
初診が終わると会計で支払いを済ませ、薬のレセプトと「次回の予約」をする。薬はあらかじめ何番の薬局で受け取るように指示された(薬局はすべて通し番号がついている)。もらった薬は、トローチほどもあるでかい錠剤だった。
それから週2回、マッサージに通ったが、恰幅のいいおばちゃん按摩師に肩・首・腕とマッサージされて、痛いのなんの。しばらくして耳の調子もよくなってきたので勝手に行くのをやめた。
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02/18/2009
少し遅れてしまったが、2004年2月14日夜、モスクワ南部にあるアミューズメント施設「トランスヴァーリ・パルク(Трансвааль парк)」で、室内プールの屋根が雪の重みで崩落し、25人が死亡した事件があった。雪の中を水着姿で救出される様子はテレビニュースにも放映された。当時、あちこちでテロが頻発しており、そのたび犠牲者は瓦礫の下敷きとなっていた。そして、この事件に関しても、またテロが起こったのかとモスクワ市民が疑心暗鬼となった。
これまでも老朽化した建物の屋根が雪で崩落するという事故は、地方でもたびたび起こっていたが、モスクワのそれほど古くない建物で発生するとは思っていなかったので、私もかなり動揺した。しかし、実際は新しいものほど突貫工事が多く、この施設の場合設計上のミスがあったということだから、ロシアで安全な場所はほとんどない、ということになる(本当に安全な建物は、ドイツ人捕虜が建設に携わった1950年代に建物だけというウワサもあった)。
当時、私がモスクワでもっとも恐れたものは、①警官、②ネオナチ、③生き埋めになること、であった。
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10/07/2008
2006年10月7日は、チェチェン関係の報道で名実共に第一人者だったアンナ・ポリトコフスカヤが暗殺された日だ。
同時に前ロシア大統領・ウラジーミル・プーチン現首相の誕生日でもある。かたや56歳、かたや鬼籍の2歳である。
いまだ事件の真相は闇の中の暗殺事件だが、ポリトコフスカヤの映画が作られたらしい。
http://www.novayagazeta.ru/data/2008/74/40.html
http://www.novayagazeta.ru/data/2008/74/41.html
アムネスティ・インターナショナル日本によると、この映画は来年日本でも公開されるそうだ。
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08/31/2008
2004年9月1日発生した北オセチアのベスランで発生した学校占拠事件。2006年にロシア軍部隊により殺害された、チェチェンの野戦部隊司令官、バサエフが関与した最後の大規模テロである。1100人以上の子ども、父兄や教師が人質となり、体育館に閉じ込められた。9月3日に特殊部隊の突入により「事件終結」をみたが、人質ら350人以上が死亡。悲劇の新学期となった。
特殊部隊が突入した瞬間、ロシアのテレビ局は学校周辺で中継していた。私はロシア人家庭に招かれてお茶を飲んでいたが、突撃の様子が流れたとき何が起こったのかすぐに理解できなかった。しばらくして裸で走っている子どもの姿が映り、なぜあんな格好でいるのかもわからなかった。私を招いたロシア人一家も、何が起こっているのか混乱しているようで、ばつが悪くなった私は早めにおいとますることにした。
モスクワのアパート爆破事件に端を発する一連のテロ事件は、いちおう2005年を最後におさまっている。しかし、テロの被害者救済はいっこうに進んでおらず、経済発展と国威発揚の陰でテロへの恐怖は、すでに過去のものとなりつつある。
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08/16/2008
1998年8月17日に起こったロシア通貨危機。ルーブルの対ドル引き下げ、民間銀行の対外債務を90日間凍結、債務繰り延べなどの政府発表から起きた債務不履行(デフォルト)の連鎖で、銀行があっというまにバタバタと倒産した。
1998年年初に1000ルーブルを新しい1ルーブルにするというデノミを行い、貯金の目減りなどが相次いでいただけに、通貨危機によって自分の預貯金もぶっ飛んでしまった人がたくさんいた。たくさんの人が失業し、男性の平均余命は50歳代に低下。アルコールに逃避する人も増加した。
通貨危機が起きて10日もすると、マーケットの棚に商品が補充されなくなった。売れ残った同じ商品が、一列にずらーっと陳列される。その単一な不気味さといったら、日本では考えられない。さらに10日もすると、砂糖や塩の陳列棚に空きが見られだした。ソ連崩壊前後の行列はそれほどではなかったが、当時のロシアは、ものづくりがあまり機能しておらず、日用品の大部分を輸入品に依存。紙切れ同然のルーブルより、ドルや外貨をもっておこうという傾向が根強く、ルーブルで支払われた給料(遅配が多かったが)はすぐにドルに両替してたんす預金という人が多かった。
ソ連崩壊による大国の威信が崩れ、ロシア人がもっとも卑屈になっていた時期のデフォルト。その後オイルマネーでここまで経済が潤うとは、当時は誰も思わなかった。現在はドルでの支払いじたいが嫌がられる。ユーロでもダメだ。皆、ルーブルでの支払いを望み、ルーブルで貯蓄する。これから10年後、ロシアはどう変わっていくであろうか。
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11/03/2007
日本人にもお馴染みのお土産露店市場「ベルニサージュ」。正確な日時を覚えていないが、2005年3月下旬、、火災に見舞われた。
増築したパビリオン部分が焼け落ち、ニュースによると焼死者が一人出たという。メインのお土産販売部分は大丈夫だったようで、火事が出た次の週にはもう営業が始まっていた。
2007年夏にここを訪れたとき、ますます大きくテーマパーク化しているのを見てびっくりした。進化する「ベルニサージュ」。今度訪れるときどんな風に変わっているだろうか。
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04/24/2007
持病の心臓病をだましだまし生き延びてきた、ボリス・エリツィン前大統領が死去した。享年76歳。プーチン氏指名と引き換えに一族の安泰を得て、悠々自適の晩年だったといえる。
彼が大統領として世間を混乱に陥れた98年通貨危機の頃、私はモスクワ生活2年目を送っていた。夏休みの最中、なにかたいへんなことが起こった、というくらいしかわからなかった。
しばらくして、いつも行くマーケットの商品棚がガラガラになりだした。売れ残った商品ばかり並ぶようになった。そのうち塩が棚から消えた。これはえらいことだと思い、日本の実家に塩を送ってくれと懇願。いくら政治や経済の混乱にロシア人が慣れているとはいえ、この経済パニックは確実にロシア人の寿命を縮める結果をもたらした。
一方、日露関係は北方領土問題が解決に向けて動き出し、ある意味蜜月といえる関係だった。路上で警察の職務質問を受けても、日本のパスポートの表紙さえ見せれば、ビザを見せなくてもいいときすらあった。
ノーヴィ・ルースキー(新ロシア人)やマフィアはいても、オルガルヒやシロヴィキがいなかった時代。一部の富裕層を除いては、一般ロシア人もまだ貧しさを共有していた時期でもあった。
大統領が交代し、エネルギー景気のおかげでロシア人の生活は格段に向上した。しかしエリツィン時代とは違って、どことなくとげとげしい空気を感じる今のロシア。「クークリ(Куклы)」のような政治風刺番組もままならない。どちらの時代がいいとか悪いとかいうのではないが、エリツィン時代へのノスタルジーというものが強く感じられてならないのであった。
http://www.interfax.ru/r/B/themearchive/317.html?menu=1&id_issue=11719014
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02/07/2007
2004年2月7日朝起こった、モスクワ地下鉄テロ。早いもので今年で3周年となる。
死者42人、負傷者約250人もの犠牲を出した大惨事。爆弾テロは過去何度か起こっていたが、地下鉄で起こったのは初めてだった。とっさに浮かんだのは東京の地下鉄サリン事件。事件直後、家にいた私は知り合いのロシア人に電話をかけまくって安否を尋ねた。
モスクワ市民にとって、地下鉄は「足」というより「生命線」だ。事件が起こったのはアフトザヴォーッツカヤ地下鉄駅とパヴェレツキー鉄道駅中間のトンネル。この鉄道ラインは、チェチェンへ向かう鉄道ルートに重なる。ならば次はどこの地下鉄路線が狙われるか。皆戦々恐々としたものだ。
同年8月31日に起こった爆弾テロ事件は、リーシスカヤ地下鉄駅の外だった。
頻発テロの起こった年から時がたつにつれ、当時の恐怖は薄れていく。それはよいことなのか悪いことなのか、根本原因が未解決の現況ではなんともいいようがない。
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10/23/2006
2002年10月23日は、モスクワ劇場占拠事件が発生した日だ。この事件は多くの謎を残したまま、とうとう5年目に突入した。
地下鉄サリン事件でいまだに心的外傷などに苦しむ人がいるのと同様、この事件でも多くの人がその後のトラウマに苦しめられている。劇場占拠事件で死んだ人はもとより、生き残った被害者たちも救済とは程遠いところに置かれたまま、時間だけ経過している。
問題なのは、この事件の被害者が国から切り捨てらてしまうことだ。
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06/11/2006
4年前の2002年ワールドカップのとき私はモスクワにいた。サッカー好きな前のロシア語教師の家に、数年ぶりに会いに行くことになっていた。おりしも当日はロシアvs日本の試合。私はサッカーに全然興味なかったし、ロシア語の先生はブラジルファンだったので、試合を見ながらお昼ご飯でも食べようということにしたのだ。しかし、サッカーファンが街にあふれる日なので安全のためにタクシーを使うことにした。
3年ぶりに会う先生は全然変わっていなかった。家の中に洗濯機が置かれ、台所がきれいにレモント(リフォーム)されており、暮らし向きがよくなったのが伺えた。その日は奥さんが実家に帰っていて不在、そのかわりに一人息子が在宅していた。
先生と息子が作ったオープンサンドと私が持参した海苔巻きを食べながら、テレビで試合を観戦。私の予想に反して、ロシアの勝算が危うくなってきた。先生も息子もどうということはなったが、日本の勝利が決定したあと、たいへんなことが起こってしまった。
ロシアの敗北に憤慨した若者が暴徒化し、赤の広場周辺の車を破壊したりトヴェルスカヤ通りの日本料理店を襲撃し始めたのだ。テレビ中継で騒ぎを知った私たちは顔面蒼白。先生は「すぐタクシーを呼んで帰った方がいいかも」と言い出した。せっかくの再会も水を注されたような感じになってしまった。
日本・韓国で行われた記念すべきワールドカップは、ロシアでは日本関係者の受難日となった。チャイコフスキー音楽院付近では日本人学生らが殴打された。これを機に、モスクワ市当局は、サッカーファンを興奮させる大型スクリーンを街に設置するのを禁止した。
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04/26/2006
1986年4月26日、史上最悪といわれるチェルノブイリ原発事故がおきた。あれから20年、あっという間に過ぎ去ったように感じるが、被害者らにとっては長い20年だったと思う。
今でも存在する残留放射能。チェルノブイリ事故が植えつけたトラウマは、突然変異した染色体のように旧ソ連諸国の人々の脳裏に残る。一方で放射線物質に対する秘密主義が残るもの確かだ。
きのこやベリーのシーズンになると、決まって取りざたされるのが「どこどこで取れたきのこやベリーに基準以上のセシウムが検出された」という類のニュースだ。毎年のことだから驚かなかったが、郊外で取れたきのこやベリーは、いくら新鮮で安くても買わないようにとロシア人の知り合いに言われた。
さらに恐ろしいのが、モスクワ市内に放射能反応が高い地域が存在していることである。原子力関係の研究所があった場所、あるいはその類の専門学校、はたまた稼動されなくなった工場跡地などだ。公園や森の中にもスポット的にガイガーカウンターが振り切れる場所があるという。軍事関係施設は地図にも載らないし、一般市民でもどこにそうした施設があるのか知らないことが多い。
また、モスクワ西部にある「戦勝記念公園」に置いてある戦車から、放射能反応が出たという噂も聞いた。子供がよじ登ったりして遊んでいる戦車だ。こうした噂や報道が本当だととしても、どこまでがチェルノブイリから運ばれた放射能で、どこからが市民の知らない放射能物質によるものか判然としない。
チェルノブイリの記憶が風化していっても、潜在恐怖は残る。その恐怖を核物質管理の方向へ昇華すること、それが「チェルノブイリの教訓」を生かすか殺すかの分かれ目となる。
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04/04/2006
4月2日は、前ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が死去してちょうど1周忌だった。1年前の4月3日、モスクワ西部にあるカトリック教会では、ヨハネ・パウロ2世を追悼するミサが大々的に行われた。報道によると、朝10時に行われたミサに参加した人の数は約900人。おそらくロシア在住のポーランド人が主力だろう。その後も三々五々に教会を訪れた人(私も含まれる?)はその倍くらいと思われるが、正直言ってカトリックと反目しているロシア正教の国で、こんなにたくさんの人が弔問に訪れるとは予想外だった。
モスクワのカトリック教会は、1911年建立、1937年から宗教活動が次第に制限され、宗教が禁じられていたソ連時代、完全閉鎖の憂き目を見た。ペレストロイカおよびソ連崩壊後、ロシアに住むポーランド人によって教会は復興工事が行われ、今日の姿を取り戻した。当時、教皇の座に就いたヨハネ・パウロ2世はその復興に尽力した人だったというわけだ。
夜の追悼ミサはロシア語で行われた。出入り口に掲げられたヨハネ・パウロ2世の写真の前にはたくさんの蝋燭が捧げられていた。キリスト教が東西に分裂して約1000年、ロシア正教会への和解を呼びかけたヨハネ・パウロ2世の悲願がこの地で達成される日が来るであろうか。
モスクワカトリック教会の住所:
ул. Малая Грузинская, 27
http://www.catedra.ru/
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11/16/2005
ちょうど一年前の11月12日のこと。買い物を頼まれて、お土産市場へ買出しへ行った帰りの地下鉄で、私は命の次に大事といわれるパスポートとビザを摺られてしまった。超満員の地下鉄に乗っていたにもかかわらず、両手いっぱい荷物を持ち、リュックの方に気を回していなかった。パスポートは巾着袋にいれて、リュックの底に入れていたから油断していたのだ。まさか巾着ごと盗られるとは思ってもみず、しかも気づいたのは、家に帰ってから3時間以上もたってからのことだった。
次の日、地元の地区警察署に行った。一人で行ってはいけないといわれたので、日本企業で働く、ロシア人職員に同行してもらった。うちの管轄ではないと言いたくてたまらなそうな門番を説得するのに小一時間。パスポートを盗られたのに気づいたのは自宅だと言い張って、その関門を突破。運が悪ければ、乗っていた地下鉄路線沿いの警察をたらい回されるらしい。
ようやく最初に通されたところは、がらーんとした暗い部屋に古いデスクトップパソコンと、私服の若い男性警官がひとり。彼が私から摺られたときの状況や盗られた物、値段、出生地、モスクワでの住所などを事情聴取していく。そして、「今日は盗難証明を書く係官が帰宅したので、また来週来い」と言って、次に行く部屋を指示した。
次に行った部屋は、これまた大学生と見まごう私服の女の子が3人。暖房が入っていなくて、マフラーを首にぐるぐるまきにしている。私たちが入っていっても、携帯メールを打つのをやめない。数分が過ぎてようやく3人のうちのひとりが面倒くさそうに同じ事情聴取をした。残り二人は携帯で電話したり菓子食べたり、へたな歌を歌ったり、まったく警官らしくない。それでもこちらは盗難証明書を出してもらいたい一心なので神妙にしていた。
その日やれることはそれだけだった。週明け、再びその警察署へ盗難証明書をもらいに出直した。しかし、女の子警官が打った書類にはタイプミスがあったので指摘したら、例の女子警官が面倒くさそうに修正した。出来上がった書類はсправка(盗難証明)とпостановление(立件書)だ。新しいパスポートとビザができる間は(パスポートは1週間かからなかったが、ビザは2週間かかった)、この紙切れが私の唯一の身分証明となる。かりに街中で警察から職務質問を受けたとしても、ビザとともになくなった出入国カードの代わりとしても、この書類は水戸黄門の印籠よろしく、私の身分を証明してくれるというのだ。しかもご丁寧にモスクワ警察はこの盗難事件について、犯人を追及してくれるというのだから、私はこの紙切れの威力に心底おそれいった。
ところで、私のパスポートはどこへいったのだろう。誰か違う写真を貼られて、偽造旅券として出回っているのかもしれない。
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10/28/2005
ばたばたしている間に10月23日が過ぎてしまった。劇場占拠事件発生の日だ。あの日の夜、私は知り合いにバレエのチケットがあまったので行かないかと誘われた。だが、モスクワにオープンしたばかりの中国茶を飲ませてくれる茶芸館に行くことにしていたので観劇はしなかった。夜、雨の中を家に帰ると、人質事件がおこったようだとニュースで知った。それが世界を震撼させた「モスクワ劇場占拠事件」の始まりだった。
今でも謎多く残っているあの事件。遺族らは疑惑や怒りを抱え込むしかない。当局は事件が起こった場所に慰霊碑を立て形だけの追悼式をしているようだが、今年はどうだったのだろうか。
写真は2004年夏に撮った元劇場の遠景。
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09/01/2005
ベスランでの学校占拠事件が発生してからちょうど1年がたった。思えば去年は2月の地下鉄爆破に始まり、テロの連続。そのなかでも学校占拠事件は多くの子供が犠牲になった最悪のテロだった。
当局側が学校に突入し、事実上事件が「解決」した日、私はロシア人の知人宅にいた。久しぶりに彼らと会い、楽しいはずの食事会だったが、事件を「中継」するテレビの映像を前に私たちは凍りついた。裸のまま逃げているたくさんの子供たち。いっこうに把握されない死傷者数。私たちはその一昨年に起きた、劇場占拠事件を思い出しながら戦慄した。
先日、外国のテレビ局が学校占拠事件の全容解明を試みた番組を見た。決してロシア国内では報道されることがないであろう事実がたくさんあった。たとえば生き残った人たちの生の証言。事件を見守り続けた家族たちの証言。そして事件の一部始終を取材した外国人記者の証言。もしこれらの証言がそのままロシア国内で報道されれば、当然政府批判が起こるだろう。したがって、一般市民は政府に選ばれた人だけの「証言」しか知らない。
ロシア人の知り合いたちとベスランや一連のテロのことを話題にしようと思っても、たいてい彼らは乗ってこない。地下鉄も学校も病院もいつテロが起こるかわからない。でも地下鉄に乗って仕事に行かねばならないし、いつ起こるかわからないテロを恐れてモスクワを逃げ出すわけにはいかない。家の中にいたって、アパートまるごと爆破されることだってある。生きている以上、テロに遭うリスクは避けられない。だから、テロが起こる土壌の上に暮らしていることをあえて無視したい、といった感じだ。
ベスランの学校占拠事件から1周年を迎えても、テロ発生の原因がなくなったわけではない。彼らは子供たちの入学式というハレの日を、これから先も厳戒態勢の中で迎えなければならない。こうした不幸な状況を彼らはどう思っているのだろうか。
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